世の中に 絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
現在の大阪府枚方市辺りにあった渚院(なぎさのいん)に、惟喬親王達とともに狩りにやって来た時の歌
狩りといいながら、ほぼ桜を愛でながら酒を飲み交わし、和歌を披露しあって過ごしたようだ
この狩りは単に身分の高い者達の遊び話ではなく、第一皇太子でありながら天皇になることができなかった親王を仲間達が慰めようと集まった話だ
世間(よのなか)は 数なきものか 春花の
散りの乱(まが)ひに 死ぬべき思へば
ーー 桜の花吹雪が舞い散る様はまるで世の中のはかなさを象徴しているようで、ふいに命を失ってしまうような感覚におそわれる
というふうに歌った
家持はちょうどその頃、大病を患ってその病床で作った歌だった
その前には、弟の書持(ふみもち)を若くして亡くしていた
大伴氏は '伴’ の言葉のように神武東征ではその先導役をしたとされ、大和朝廷内の天皇直属の軍事を担当してきた伝統ある武門の氏族だ
しかし家持が物心ついた頃には、その権勢は藤原氏などの新興の氏族に圧されて陰りがさし、疫病の流行などもあって世の中も混沌としていた
時の聖武天皇は仏教に救いを求めて大仏建立を計画した
家持が当時、越中に赴任していたのは、東大寺建立のための田の開墾が目的だったかともいわれる
そんなおり、東北地方から金が産出されたという吉報が朝廷に入る
聖武天皇はこの事を大変に喜び、家持にそれを伝えた
それに対して応えたのが下の長歌だった
・ ・・海行かば 水漬(みづ)く屍 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言(こと)立て ますらをの 清きその名を・・・梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取りはき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門(みかど)の守り 我をおきて 人はあらじと・・・
聖武天皇へのアピールの歌にも聞こえ、その必死さが感じられる
業平も家持も、花の歌の方が似合う