飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
世の中を 憂しとやさしと 思へども
飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
この歌は、山上憶良の『貧窮問答(ひんきゅうもんどう)の歌』という長歌に続く反歌として万葉集に採られている
『貧窮問答歌』は、厳しい租税に追われ貧窮に喘ぐ、民の嘆きの歌
「やさし」は、「恥し」とも表記する
(私訳)
世の中は辛く、身も心もやせる思いがして、(肩身が狭く恥ずかしいと思っても)、飛んで行くこともできない。
私は鳥ではないのだから…
憶良は、660年頃の百済の国滅亡にともなって大和へ帰化した一族の息子とも言われる
宮廷歌人として活躍した柿本人麿とほぼ同世代だが、裨賤の家筋だったせいなのか、42歳まで無位だった
42歳で第4次遣唐使として唐の国へ渡り、帰国後『臣(おみ)』の姓(かばね)が与えられ、伯耆守(ほうきのかみ)、東宮侍講(とうぐうじこう)を経て70歳を前に筑前守を任ぜられ、その間に多くの歌を残した
筑前守時代、大宰帥(だざいのそち)だった大伴旅人と、その若き息子・家持に、歌で大きな影響を与えたと思われる
元号・令和の元となった太宰府での「梅花の宴」は、旅人が主催し、憶良も招かれ梅花の歌を残している
また、かつて自らも渡った唐の国へ出発する遣唐使達を前にして、船旅の無事を祈って奏上した『好去好来の歌』がある
…言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり……つつみなく幸くいまして早や帰りませ…
口から出る言葉の影響力を言霊と言い表した
憶良の歌の幅は広く、万葉集の中でも個性的で独自な存在だ
百済や唐の言葉や文化を、大和独自に育んできた独特の文化に融合させ、現代まで影響を与えている
社会性のある歌は漢歌から、七夕の歌などは百済の文化からと思われる
貧窮問答歌より、略私訳)
…雪の降る寒い夜に、綿も入ってなく袖もないボロ布を掛け、地面に藁を敷いただけの家に父母と子供達と座り、竈には火もたたず、調理道具はクモの巣が張ってしまう有り様なのに、里の長は私達の寝ているところ迄やって来て呼び立てている。こんなにもどうすることもできないものか、世の中というものは…
⬛ 世の中を 憂しとやさしと 思へども
飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば