すゑ葉の露に 嵐たつなり
暮るる間も 待つべき世かは あだし野の
末葉(すゑば)の露に 嵐たつなり
ーー 日暮れまでも待ってはくれない、この世の中は。
葬送の地・化野(あだしの)の葉先の露が、風であっけなく消え去るように ーー (私訳)
幼い頃より10年余り加茂の斎院となり神へ奉仕し、二十代で母と兄を亡くし、40歳で父帝も亡くした。
歌は藤原俊成から学び、俊成の息子の定家とも交流があった。
晩年は病(乳癌か?)を患い、(法然のもと?)出家し、49歳で没した。
式子内親王の過ごした平安末期は、釈迦入滅2000年後の末法の世と言われた時代。
政情不安・天変地異・疫病蔓延が重なった。
ーー 築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐひ数も知らず。取り捨つるわざも知らねば臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆく形ありさま目も当たられぬ事多かり。
はじめの歌にある化野は、北の蓮台野・東の鳥辺野と並ぶ、西の葬送の地であるが、方丈記を見ると、葬送の地へ死骸を運ぶ事さえままならない、まさに地獄絵図さながらの状況だった。
□ 見しことも 見ぬ行く末も かりそめの
枕に浮かぶ 幻の中
□ 静かなる 暁ごとに 見渡せば
まだ深き夜の 夢ぞ悲しき
□ 山深み 春とも知らぬ 松の戸に
たえだえかかる 雪の玉水
□ 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
はかなくも美しく清洌な歌を残し、露のような人生を終えた。
しかしその存在は没後にさらに輝きを放ち、能楽の『定家』では定家との関係について、ほか、法然との関係なども後の世の人々の想像をかきたて続けている。
ーー 暮るる間も 待つべき世かは 化野の
末葉のつゆに あらし立つなり ーー