ヤマタチバナの実の照るを見む
この雪の け残る時に いざ行かな
山橘の 実の照るを見む
この歌は家持が、越中(現在の富山県と石川県能登地方を合わせた地域)に国守として赴任中(750年)に詠まれた。
ヤマタチバナとは、今のヤブコウジの事で、冬に赤く艶やかな実をつける。
雪深い北陸の真っ白な景色の中で、鮮やかな赤を見た時「照る」と表現したくなったのだろう。
他にも、越中赴任中の5年間で詠まれた歌の中に、秀歌が多い。
立山の 雪のく(消・来)らしも はひつきの
川の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸かすも
立山の雪解けの水が早月川を流れ、馬の鐙まで水に浸かってしまいそうだよ(私訳)
清冽な雪解け水が、急流を流れていく。
家持は奈良に育ち、青年時代は福岡の大宰府へ父と過ごしたが、北陸の暮しはとても新鮮だった事だろう。
その驚きや嬉しさが、様々な歌から伝わってくる。
朝床に 聞けば遥けし 射水川(いみずがわ)
朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人
朝の寝床まで遠くから聴こえてくるのは、射水川を遡ってゆく舟人達の歌声か(私訳)
そのようなのどかな歌声で目覚められたら、幸せだったろうと思う。
家持は、古(いにしえ)の頃より天皇家に軍事で支えてきた大伴氏の棟梁としての責務があった。
父の旅人は既に亡くなっており、弟の書持(ふみもち)も亡くしたばかりだ。
都では、聖武天皇の命により大仏の建造が行われており、家持も天皇と橘諸兄を頼みとしてきた。
だが、この越中赴任から都に戻った後、橘諸兄が失脚、聖武天皇も崩御し、新興の藤原氏に対抗しようとしていた古い家柄の者達は、後ろ楯を失くし、坂を転げ落ちるように失脚してゆく。
家持もその後、因幡、薩摩、陸奥など各地へ任ぜられ67歳で死去した。
古代、戦いにおいて、「言向け和す(ことむけやわす)」(戦う相手を言葉によって征服する)という言霊(ことだま)の伝統があった。
その伝統に従って、武門の家の長でもある家持は、万葉集を編纂し、歌人として歌も残した。
名門の家督を継ぎ、波乱の人生を送った家持は、万葉集によって古代の歌謡を後世に伝える、という大事業を成し遂げた。
この雪の 消残る時に いざ行かな
山橘の 実の照るを見む