旅にまさりて 苦しかりけり
人もなき むなしき家は 草枕(くさまくら)
旅にまさりて 苦しかりけり
大伴旅人は60歳を過ぎてから太宰師(だざいのそち)として筑紫へ2度目の赴任をした
この赴任は藤原氏にとっての厄介者を遠ざける隠流(しのびながし)かともいわれる
筑紫には、愛妻とまだ十代の息子の家持らも同行した
2度目の赴任後間もなく妻が亡くなった
その後都への帰郷することになる
「故郷の家に帰り入りて、即ち作れる歌…」
として冒頭の歌がある
そして下の歌
■ 我妹子(わぎもこ)が 植えし梅の木 見るごとに
心むせつつ 涙し流る
家に帰ってもそこにいるはずの人がいない辛さを 飾らない言葉で歌う
旅人の太宰府赴任中に、自らの館に、山上億良、小野老ら、主客合わせて32名の九州各地で官職に就いている者や地元の名士等を招いて観梅の宴を催した
そしてその32名が「梅」を題材にして歌を一首ずつ詠みあった
そういった催しは、4世紀頃の中国で、王義之が蘭亭に名士42名を招いて行った 曲水の宴 から着想を得たものと思われる
曲水の宴とは、水辺に盃を流し、各自の前を盃が流れ着く前に歌を作り、その盃から酒を飲んだようだ
曲水の宴は3月3日に行われた
3月3日は古代中国で上巳(じょうし)の節句の日だ
元は3月最初の巳の日だったためで、その日は水辺で病を祓うための禊ぎをしたという
禊ぎから、水辺での風流な催しとなり、海を渡って梅花の下の宴となった
旅人は、当時先進の花や催しを取り入れ、政治面では藤原氏に圧されていたが文化面で牽引した
太宰府から奈良の都へ帰郷した旅人も間もなく亡くなる
旅人の従者だった余明軍(よのみょうぐん)が主を偲ぶ歌が万葉集に残る
■ かくのみに ありけるものを 萩の花
咲きてありやと 問ひし君はも
( あのようにはかない死の床においても、「萩の花は咲いただろうか」と尋ねたあなたよ )
旅人は最期まで風流人であった