宮も藁屋も 果てしなければ
世の中は とにもかくにも ありぬべし
宮も藁屋も はてしなければ
蝉丸
(私訳)世の中はとにもかくにも変わりゆくもの。宮であろうと藁屋あろうと永遠のものはないのだから…
これは能楽『蝉丸』の中で歌われている
『蝉丸』は世阿弥の作といわれる
物語は、醍醐天皇の第4皇子の蝉丸が生まれながらに盲目だったため、天皇の命で逢坂山に捨ておかれるところから始まる
盗賊に狙われないようにみすぼらしい身なりに着替え、髪を切って僧の姿になり、手に残るのは杖と楽器の琵琶のみ
蝉丸は粗末な藁屋で琵琶を弾いて人々から施しを受けて暮らすこととなる
その琵琶の音色を偶然聴いてやってきたのは蝉丸の姉宮の「逆髪」だった
「逆髪」は生まれながらに髪が逆立ち、周囲の者から奇異の目で見られ、ついに狂乱して都を出て逢坂山までやってきた
二人は何の因果か皇子皇女に生まれながら、逢坂山で出会い、お互いの身の上を嘆き、互いを案じながらも、再び涙ながらに別離の時を迎え、逆髪は去って行く---
蝉丸とは、中世の頃の盲目の人達は琵琶を弾くなどして施しを受けながら町から離れたところで暮らしていたようで、その人達をモデルにしたものかと思われる
逆髪 も、逢坂山のような土地の境目の場所から魔がやってくると信じられていたことから、境に宿神(しゅくじん)や道祖神と呼ばれる神を祭っていたことから、「サカガミ」というのも 坂神 とか 境神 から着想を得ているのかもしれない
世阿弥も観阿弥も元は猿楽といわれる一芸能者だったが、時の権力者・足利義満に幸運にもとりあげられた
しかし宮中にあっても元"河原者(かわらもの)"として蔑まれる場面もあったに違いない
よって、世阿弥はそういった一般の暮らしからはみ出してしまった者達を、劇中で皇子皇女とすることで弔いたかったのかもしれない
逆髪が、自分の逆さまに生える髪を笑う子供達を見て語る場面がある
◆ 逆さといえば庶民の子供が皇女の自分を笑う事も逆さであるが、よく考えれば世の中ではこういった事はよくあることで、花の種は上に向かって花を咲かせるし、月の光は水の底に映るのだから・・・私はまるで狂女に見えるだろうが、心は清滝川のように清らかであるのですよ・・・
-- 心は清滝川と知るべしーー
世の中は とにもかくにも ありぬべし
宮も藁屋も 果てしなければ