難波潟 短き葦の 節の間も
難波潟 短き葦の 節(ふし)の間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや
伊勢
時間の短さを干潟の芦の節と節の間の短さに例える
恨み言も歌になれば芸術に昇華する
この時代の歌に難波の様子がいくつか登場するが今の大阪からは想像が難しい
古代の大阪の中心部は、上町台地の辺り以外は 『難波津』と呼ばれる港や、湖、湿地帯など広がっていたもよう
芦原もそこここに広がっていたと思われる
万葉集には、
□あし刈りに 堀江漕ぐなる 梶の音(ね)は…
□堀江より 水脈(みを)さかのぼる 梶の音の…
□難波津に 御船(みふね)下ろすえ…
など、いずれも海や水辺が歌われる
堀江とは、内陸の湖と港(難波津)とを結ぶ水路の事を堀江と言ったようだ
芦については古事記に『葦原中国(あしはらのなかつくに)』とあり、万葉集にも「葦原の 瑞穂の国は …」等々ある
かつての沿岸部では身近な植物だったのだろう
作者の伊勢はほとんどを屋敷や宮廷で過ごしていたと思われ、芦については身近だからというよりも、歌にノスタルジーや風流を込めたのではないか
見過ごしてしまいそうな芦の節目を歌に織り込んだ繊細な感性はさすがだ