やまぶきの 立ちよそひたる 山清水
やまぶきの 立ちよそひたる 山清水
汲みに行かめど 道の知らなく
高市皇子(たけちのみこと)
『十市皇女の薨ぜし時に高市皇子尊の作らす歌三首』として万葉集巻第二に採られた歌
十市皇女(とをちのひめみこ)も高市皇子も天武天皇を父にもつ異母姉弟である
およそ同年代で十市皇女は壬申乱でやぶれた大友皇子の妻であり、高市皇子は壬申乱に勝利した父の天武天皇方の総大将だった
十市皇女は大友皇子の死の時いまだ二十歳前後とみられ、それから約6年後「にはかに病おこりて宮の中に薨ず」とあり自殺という説もある
高市皇子と十市皇女は密かな恋人だったのではないかといわれるが、この当時頃まで異母兄弟姉妹での結婚はみられる
歌にあるヤマブキと山清水の示すものは、シルクロードの影響があるともいわれる
紀元前2500年シュメール人は太陽が西に沈む時、その西方には生命復活を司る植物があり、その側に再生の切符が手に入る水があると考えた
ヤマブキの側にある山清水を手に入れて皇女の復活を望むけどその場所すら分からない、と嘆く歌である
■山振の 立ち儀ひたる 山清水
酌みに行かめど 道の知らなく
見渡せば 花も紅葉も なかりけり
見渡せば 花ももみじも なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮れ
新古今和歌集にあるこの歌
人生と自然の融合をあらわす幽玄体の歌風で知られる藤原俊成の息子の定家
定家の歌は「言葉は古きを慕ひ心は新しきを求め」る有心(うしん)の美を目指した
後鳥羽上皇より新古今和歌集の撰者に選ばれ、一方で鎌倉幕府の三代将軍・源実朝に歌も教えた
実朝は定家の妻を介して遠縁にあたる
平安末期の歌には否が応にも無常観が漂う
■山深み 春とも知らぬ 松の戸に
たえだえかる 雪の玉水
後白河天皇の皇女の式子内親王は、7歳頃から10年余りを賀茂神社で斎院として過ごした
源平争乱の時代のなかで、同母兄の以仁(もちひと)王を内親王が28才の時に亡くした
25才の時には母を、40才の時には父を亡くす
幼い頃から斎院を勤めた深窓の媛であった式子内親王が、その後ろ盾を無くした後の落差は如何ほどだったであろうか
その頃法然のもとで出家をし、晩年は病(一説には乳がんとも)を患い49才で没した
定家とも同時代であり交流があった
のちに能の演目にもなるなど様々な想像をかき立てられる新古今集を代表する女流歌人だ
■暮るる間も 待つべき世かは あだし野の
末葉(すゑば)の露に 嵐たつなり
化(あだし)野は古代の葬送の地であった
手に執るからに ゆらく玉の緖
初春の 初音の今日の 玉箒(たまばはき)
手に執るからに 揺らく玉の緖
758年(天平宝宇2年)家持41歳の年の初めの子の日に、宮中では宴が催された
家持は宴で奏上するための歌を用意していたが、仕事の都合で披露する事ができなかったようだ
万葉集巻第20に歌の後に「大蔵の政に依りて、奏し堪(あ)へず」と
当時はついに披露されなかったこの歌が、1200年後の今、私達の目に触れているのは不思議なことだ
歌の中の玉箒は養蚕の発展のために飾られ、同じように男性のための手辛鋤(てからすき)という物もある
これらは節物(せつぶつ)という
正倉院にはこの歌が作られた時期の『子日目利箒(ねのひのめとぎぼうき)』と『子日手辛鋤』が今も保存されている
籠(こ)もよ み籠もち
籠(こ)もよ み籠(こ)もち
ふくしもよ みふくし持ち
この岳(をか)に 菜摘ます児(こ)
家聞かな 名告(の)らさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて 我こそ居(お)れ
しきなべて 我こそ座(ま)せ
我〈に〉こそは告らめ 家をも名をも
万葉集第一巻の一番、「天皇の御製歌(おほみうた)」として載っているのがこの歌
古代の日本(大和王朝)において、神にその意向を問う時、標(し)めした特定の土地で《籠一杯に若菜を摘む》など誓いをたててそれを行った
それを「誓約(うけい)」という
なのでこの歌は天皇がたまたま丘を通りかかって娘達に問いかけた歌ではなく、国の安寧か自身の権威の保持等かはわからないが、誓約し歌にして神に届ける真面目な行事のようなものだったと思われる
古代では名前を名告りなさいというのは、私と結婚しなさいと言うことと同義だったようだ
(私訳)良い籠と良いへらを持ちこの丘で若菜を摘む娘よ、家を、名前を名告りなさい
この大和の国は私が隅々まで治めているのだ
私こそが名告ろう〈又は、私にこそ名告りなさい〉
万葉集のはじめにふさわしく、古代の王の堂々としたおおらかさが感じられる歌だ
都忘れと 名づくるも憂し
いかにして 契りおきけむ 白菊を
みやこわすれと 名づくるも憂し
順徳天皇の父、後鳥羽上皇は幕府倒幕を謀って承久の乱を起こした
しかし天皇方は幕府方に破れ、乱に参加した順徳天皇も父帝とともにそれぞれ配流となった
異母兄の土御門天皇は自ら申し出て土佐へ
父子らは一度も都に帰ることなく配流先で崩御した
後鳥羽上皇は管弦・蹴鞠・有職故実・刀剣…と文武に長け、文華で世を治めたとされる平安朝の醍醐・村上天皇の時代に憧れを持ち、新古今和歌集を編纂した
隠岐ヘ行った後もその改訂を続けるほど和歌の世界に傾倒した帝王歌人だった
息子の順徳天皇も幼い頃から藤原定家の師事を受けて和歌に熱心に取り組んだ
上の歌は佐渡から遠く離れた父と都を想いながら詠んだ
白菊は父が好んだ花だったから
(私訳)どういった縁であろうか…父の愛した白菊を「みやこわすれ」と呼んではみてもつらい心は晴れないままだ
土佐から阿波へ移された土御門天皇は配流から10年後37歳で崩御
20年もの間、都へ帰ることが赦されなかった順徳天皇は46才で断食によって崩御したという
のちに定家は百人一首の中に、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌もおさめた
朝けの風は たもと寒しも
秋立ちて 幾日(いくか)もあらねば この寝ぬる
朝明(あさけ)の風は 手本(たもと)寒しも
安貴王(あきのおおきみ)
ほんの数日前までは暑くて寝苦しかったのに、ふいに明け方の風の寒さに目が覚める
夏の空気から秋のそれへと切り替わった瞬間に感じる繊細な変化をとらえる
安貴王は、志貴皇子(しきのみこ)の孫であり、志貴皇子ー湯原王・春日王ー安貴王ー市原王と歌人の系譜で繋がる
時代はくだって、平安時代の秋のはじめの歌で、
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる
紀氏(きのし)との関わりが深く、母は紀名虎の娘で、妻は紀有常の娘
同じく紀名虎の娘を妻に持つ在原業平とは、今で言う義理の兄弟の関係だ
藤原南家の流れで、北家のように政治的中心を握る家柄ではなかったことが、より文化面に力が注がれた理由かもしれない
百人一首にも名を連ねる
住江の 岸に寄る波 夜さへや
夢の通ひ路(ぢ) 人目よくらむ
よるは寄ると夜にかかり、よくは避くの意味も持つ