古歌集

万葉集・古事記・百人一首・伊勢物語・古今和歌集などの歌の観賞記録

二人行けど 行き過ぎがたき

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二人行けど   行き過ぎ難き    秋山を

                    いかにか君が   独り越ゆらむ

                                 大伯皇女(おおくのひめみこ)

 

 大伯皇女は伊勢の斎宮だった

弟の大津皇子は自らに迫り来る身の危険を感じ、はるばる山を越えて姉の元を訪れた

姉弟の父は天武天皇、母は大田皇女

天武天皇崩御してすぐ、謀反の疑いをかけられ自害に追いやられた

大津皇子は次期天皇の有力候補だった

後に持統天皇となる天武の皇后は、息子の草壁皇子を次期天皇にどうしてもしたかった

大津皇子の母は早くに亡くなっており姉弟の後ろ盾は非常に弱かった…

 

いったいどのような気持ちで弟を送り出しただろう

斎宮である大伯皇女にできることは祈ることくらいであったろう

 

■ 百伝(ももづた)ふ   磐余(いはれ)の池に    鳴く鴨を

            今日のみ見てや   雲隠りなむ         大津皇子

この歌を残して24歳で亡くなる

大津が亡くなった後に大伯皇女は伊勢から都へ戻された

 

□ 磯の上に   生ふる馬酔木(あしび)を   手折らめど

           見すべき君が   在りと言はなくに       大伯皇女

岩のほとりに生えるアセビの花を手折っても見せる弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない

 

天武天皇大津皇子の死後3年後に草壁皇子が亡くなり、大津皇子の祟りを恐れた持統天皇は、その亡殻を二上山頂に移す

 

□   うつそみの   人なる我や    明日よりは

                      二上山を   弟(いろせ)と我が見む

 

現世の人である私なので、明日からは二上山を弟と見て過ごしましょう…

 

家にあれば 笥に盛る飯を

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家にあれば   笥(け)に盛る飯(いひ)を   草枕

             旅にしあれば   椎(しひ)の葉に盛る

                                       有間皇子(ありまのみこ)

 

この歌は、有間皇子が謀反の罪によって白浜の方へ護送される途中に歌った辞世の句の一首

~家であれば器に盛られる食事も旅であれば椎の葉が器か…

 

旅は、現在の感じる感覚と随分違うはずだ

ましてや死へむかう旅ともなればなおさら…

 

■ 磐代(いはしろ)の   浜松が枝(え)を   ひきむすび

                  ま幸(さき)くあらば   また帰り見む

 

~ 磐代(現在の和歌山県にある地名)の崖下の道沿いの松の枝と枝とを結んで旅の無事を祈り、もしも命がながらえることができたなら、帰りにこの松を見よう…

 

有間皇子は、家で食事することも、結んだ松を見る事もなく、絞首刑にされた

19歳だった

謀反は本当に企まれたのか

有間皇子中大兄皇子と同じ祖父を持つ

父は孝徳天皇であり次期天皇としても有力だった

中大兄皇子蘇我入鹿殺害から、次々と有力な人物を排除していった

有間皇子もその一人だ

まだ国のかたちが出来上がる時代

中大兄は豪族による支配ではなく天皇による中央集権国家を目指していた

国外からの脅威が迫っていた時代だった

約10年後に日本は、唐・新羅連合軍と戦うことになる

有間皇子はその過程のある意味犠牲者であった

後世の人々もそう感じていたのか、有間皇子を偲ぶ歌を歌いその魂の鎮魂を願った

 

藻塩たれつつ 侘ぶと答えよ

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わくらばに   問ふ人あらば   須磨の浦に

                          藻塩たれつつ   侘ぶと答へよ

                                                             在原行平

 

~たまたま私の事を聞いてくる人があったなら、須磨の浜辺で塩でも作りながらしょんぼりしているよと答えておくれ~

 

在原行平は、業平の母違いの兄で、どちらも阿保親王の子でありながら皇統を離れて在野に在ることを明確に示す名をつけて生きた

天皇を脅かす存在ではないと示すことで身を守るしかなかった時代のこと

 

この歌が詠まれた時期は、行平は何かの事情で須磨に追いやられて一時期過ごしたらしい

 

藻塩とは、海水を何度もかけた海藻を焼いた灰を水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を作るやり方で、ぽたぽたと煮詰める様子を歌ったこの歌が、雪平(行平)鍋の名前の由来ともいわれる

 

また、皇統から臣籍降下した貴公子が須磨で過ごす話は、源氏物語の須磨の巻のもとになっているとみられる

 

行平が因幡の守(かみ)に任命され、都の人々への別れの歌として歌った、百人一首にも採られている歌がある

■  立ち別れ   因幡の山の   峰に生ふる

                 松とし聞かば   今帰りこむ

 

因幡』は『往なば』に、『松』は『待つ』にかかり、待っていると聞いたならすぐにでも帰ってきますよ…

 

行平の歌からは、弟の業平と同様の、友人達に囲まれて生きるおおらかな人柄を感じる

そういったところが後の世の紫式部らに理想の男性像として影響を与え、物語となっていったのではなかろうか

 

行平は晩年に、藤原氏の子息達が学ぶ勧学院に拮抗しようと、臣籍降下した氏族(源氏・平氏在原氏等)の子息などの学問所「奨学院」を創立し、75歳まで生きた

夏野の草を なづみ来るかも

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父母に    知らせるぬ子ゆえ   三宅通(みやけぢ)の

                    夏野の草を   なづみ来るかも

                                                      万葉集巻第13より

~父母にはまだ知らせていない娘ですから、三宅村の生い茂る夏草の道をかきわけて通って行くのです(私訳)~

 

この歌は、その前に長歌があり、その反歌として載っている

 

うちひさつ   三宅の原ゆ   直(ひた)土に

足踏み貫き   夏草を   腰になづみ

いかなるや   人の子故そ   通はすも我子…

 

~三宅道のでこぼこ道に足をとられながら、腰まで伸びた夏草を掻き分けて、いったいどこの娘のもとへ通っているのね、我が息子よ…(私訳)~

 

そういう問い掛けに、息子が答えた歌がはじめの歌

この頃は夫が妻のもとに通う通い婚だった

三宅道は、今の奈良県磯城郡三宅町が比定されている

 

この歌では“父母"とあるが、万葉集には“母父(おもちち・あもしし)"となっている歌もあり、この頃がちょうど母から娘へ家の特権を引き継ぐ母系社会から大陸文化による父系制への変遷の時期だったと思われる

 

ちはやふる   神のみ坂に   幣(ぬさ)奉り

                    斎(いは)ふ命は   母父が為

七夕つめに 宿からむ

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狩りくらし   たなばたつめに   宿借らむ

                             天の河原に    我は来にけり

 

 伊勢物語、惟喬(これたか)親王の伴をして在原業平らが狩りで天の河(現在の大阪府枚方市天野川)までやって来た

親王は業平にこれを題材にした歌を所望した

そうして作った歌としてとりあげられている

~ 狩りをしているうちに日が暮れてきた

織り姫に宿をかりよう、天の川なのだから ~

 

織女とはなにか、一説に…

今から約4200年程前、中国大陸の北方の黄河流域を支配していた黄帝という者がいた

大陸南方の長江流域に大変文化の発達した国があったが、黄帝がこれを滅ぼした

黄帝の妻は南方の絹織物を好んだため、織女を北方へ連れ去ってきた

南方にとり残された夫達は、妻に一目逢いたいと、天の川がはっきりと見える七夕の日に再会の願望をかけたのが始まりと…

 

 唐の時代の頃には裁縫などが巧になるよう祈る祭に変遷していた

 

おそらく奈良時代百済などの帰化人から伝わり、万葉集には130首余りの七夕の歌が採られている

柿本人磨呂歌集より、

 

□ 天の川   梶の音聞こゆ    彦星と   

         織女(たなばたつめ)と  今夜逢ふらしも

 

旧暦の7月7日は、今の暦の7月終わり頃

万葉集では『秋の雑歌』に含まれる

禊ぞ夏の しるしなりける

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風そよぐ   ならの小川の   夕暮れは

                    禊ぎぞ夏の   しるしなりける

                                                          藤原家隆

 

…涼やかな風の吹く、ならの小川の夕暮れ時は、まるで夏越しの祓の行事だけが夏の名残のようである…

 

鎌倉時代初期の歌人家隆の、夏になれば必ず口づさみたくなる歌

 

夏越し祓えが行われる旧暦の6月の終わりは、今の暦の7月終わり頃なので、まだまだ残暑が残っている時期

 

風流人ならではの季節の先取りか、または早くそうなってほしい願望も含めてか

 

夏越しの祓えには、疫病の流行るこの季節をなんとか乗り越えようという思いがある

 

平安中期の醍醐帝の頃までは大宝律令に規定された宮中の行事として、6月と12月の晦(つごもり)に、大祓(おおはらえ)の神事が執り行われたようだ

6月は、『六月(みなつき)の晦の大祓』という祝詞を中臣氏が皆の前でよみあげたという

 

祓えとは、これまでの罪を川に流し浄化することを意味したようで、紙で作った人型に息を吹きかけ罪を人型にうつして川に流す

そういった行事が形を変えて一般の人々の間でも無事に夏を乗り切る行事として変遷したのだろう

 

カモ神社に流れる小川のそばで、ひと時の涼やかさを味わう

貴族だった家隆の、一服の清涼剤のような歌

 

 

□  風そよぐ    ならの小川の    夕暮れは

                       禊ぎぞ夏の    しるしなりける

 

 

 

春されば 卯の花腐たし

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春されば    卯の花腐(く)たし   我が越えし

                妹(いも)が垣間は   荒れにけるかも

                                                               詠み人知らず

 

万葉集巻第十の中の、春の相聞(そうもん)の『花に寄する』に分類された歌

 

低木である卯の花の垣根を乗り越えながら通ったあの娘の家の垣根は今ではすっかり荒れてしまった(私訳)… 

これだけの歌なら気にも留めなかったかもしれないが、

「春されば 卯の花腐し」

という美しい響きから始まっているために、放っておけない歌となった

 

同じ万葉集の巻第十九に

『霖雨(ながめ)の晴れぬる日に作る歌』として、

卯の花を  腐す霖雨の ・・

とあるように、万葉の頃は卯の花と雨は自然に結び付いていたようだ 

 

ならば、先の歌の 「卯の花腐し」 は、白く密集して咲く卯の花が春の長雨でクタッとなった様子と、最近足が遠のいてしまった娘の家の垣根の様子が二重うつしとなっている

 

もう少し時代が下って『伊勢物語』の中で、

 

■  起きもせず    寝もせで夜を   明かしては

               春のものとて   ながめ暮らしつ

                                   

「ながめ」は、「眺め」と「長雨」二重の意味を表す