藻塩たれつつ 侘ぶと答えよ
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に
藻塩たれつつ 侘ぶと答へよ
~たまたま私の事を聞いてくる人があったなら、須磨の浜辺で塩でも作りながらしょんぼりしているよと答えておくれ~
在原行平は、業平の母違いの兄で、どちらも阿保親王の子でありながら皇統を離れて在野に在ることを明確に示す名をつけて生きた
天皇を脅かす存在ではないと示すことで身を守るしかなかった時代のこと
この歌が詠まれた時期は、行平は何かの事情で須磨に追いやられて一時期過ごしたらしい
藻塩とは、海水を何度もかけた海藻を焼いた灰を水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を作るやり方で、ぽたぽたと煮詰める様子を歌ったこの歌が、雪平(行平)鍋の名前の由来ともいわれる
また、皇統から臣籍降下した貴公子が須磨で過ごす話は、源氏物語の須磨の巻のもとになっているとみられる
行平が因幡の守(かみ)に任命され、都の人々への別れの歌として歌った、百人一首にも採られている歌がある
■ 立ち別れ 因幡の山の 峰に生ふる
松とし聞かば 今帰りこむ
『因幡』は『往なば』に、『松』は『待つ』にかかり、待っていると聞いたならすぐにでも帰ってきますよ…
行平の歌からは、弟の業平と同様の、友人達に囲まれて生きるおおらかな人柄を感じる
そういったところが後の世の紫式部らに理想の男性像として影響を与え、物語となっていったのではなかろうか
行平は晩年に、藤原氏の子息達が学ぶ勧学院に拮抗しようと、臣籍降下した氏族(源氏・平氏・在原氏等)の子息などの学問所「奨学院」を創立し、75歳まで生きた