都忘れと 名づくるも憂し
いかにして 契りおきけむ 白菊を
みやこわすれと 名づくるも憂し
順徳天皇の父、後鳥羽上皇は幕府倒幕を謀って承久の乱を起こした
しかし天皇方は幕府方に破れ、乱に参加した順徳天皇も父帝とともにそれぞれ配流となった
異母兄の土御門天皇は自ら申し出て土佐へ
父子らは一度も都に帰ることなく配流先で崩御した
後鳥羽上皇は管弦・蹴鞠・有職故実・刀剣…と文武に長け、文華で世を治めたとされる平安朝の醍醐・村上天皇の時代に憧れを持ち、新古今和歌集を編纂した
隠岐ヘ行った後もその改訂を続けるほど和歌の世界に傾倒した帝王歌人だった
息子の順徳天皇も幼い頃から藤原定家の師事を受けて和歌に熱心に取り組んだ
上の歌は佐渡から遠く離れた父と都を想いながら詠んだ
白菊は父が好んだ花だったから
(私訳)どういった縁であろうか…父の愛した白菊を「みやこわすれ」と呼んではみてもつらい心は晴れないままだ
土佐から阿波へ移された土御門天皇は配流から10年後37歳で崩御
20年もの間、都へ帰ることが赦されなかった順徳天皇は46才で断食によって崩御したという
のちに定家は百人一首の中に、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌もおさめた